「感謝の心は意識して言葉に」=生かされている意味さがし(87)

87 感謝の心は意識して言葉に=生かされている意味さがし(87)

とある知人の女性が、「今日は夕飯をつくらない! ボイコットする!」と話していました。「また、突然に何故?」と聞くと、「昨日の夕食も含めて、自分が食事の支度をすることが当然のようになっていて、出来ていなければ『まだか?』というような感じで、出来れば自分を待たずにサッさと食べ始める。感謝の気持ちもない……。切なくなる」と言うのです。

普段から、そういう状況はあるでしょうし、ことさら今この場面で怒っても何の解決にもならないと思うのですが、よほど腹に据えかねたらしいのです。「よくあることだよ!」と私の変な同情がさらに火をつけてしまったのかも知れませんが、結局、どうしたのかは聞くこともしませんでした。

どこの家庭でも日常垣間見る夕食時の光景でもあるのですが、家庭の団欒を楽しみにしている主婦にとっては「我慢も限界」という日もあるでしょう。

家族にしてみれば妻や母親の家事は半分当然で、半分感謝の気持ちがあったとしても、日々「ありがとう!」などと言う訳でもなく、一年まとめて「妻(母親)の誕生日」と「母の日」にメッセージを伝える! というのが大半の家庭かも知れません。気持ちをダイレクトに伝えられない日本人の性格(おくゆかしさ?!)でもありますね。

昭和四〇年頃、高度成長期に乗り遅れまいと各家庭でも共稼ぎ世帯が激増し、家庭の環境も大きく変わっていきました。

我が家も、共稼ぎ家庭で、朝はバタバタとそれぞれが忙しく動き回っていました。

父親は、母親の忙しさを見かねて部屋中の掃除をしていました。母親は朝食、弁当づくり、洗濯もあり大変です。子どもは外の玄関掃除が終わると、今日の授業の教科書をランドセルに詰め込んで、宿題のやり残しがないか、勉強部屋(今のように<子供部屋>とは言いません)でアタフタしています。

この時点では、父親(夫)は母親(妻)を労わり、「善意」での朝の掃除をしていることになります。ところが、このことが常態化してくると「日課」になり、「義務」になってしまいます。

母親は、時に二日酔いか何かで掃除をしない父親に、「どうして掃除をしないの?」と怒ったような口調で問い質すことがあったのです。そう、初めは「善意」だったのです。男女協働参画のご時世では、そういう考え方自体がナンセンスかも知れませんが、戦後の家父長制度がまだ続いている時代ですから、「善意で始めた掃除がたまにサボったことで何故怒られるんだ?」という不満が芽生えてしまうのです。

今の我が家も同じです。朝の風呂掃除を自分がやった、やらないで一瞬雰囲気が悪くなります。最初は共稼ぎの善意から始めたことが義務になりつつある。危険ですねぇ~。(笑)

夕飯の話に戻って、知人の女性はご主人と順番で夕食を作ろう! と提案している訳ではありません。ただ、そういう努力を認めたり、言葉にして欲しい! という思いと、食事を一緒に食べる! という気遣いを感じたいだけなのかも知れません。

家族としては、やはり「ありがとう!」なり、「一緒に食べよう!」なり、「美味しかった!」という声掛けや気持ちの表し方は必要だと思うのです。

感謝の気持ちは「言葉」にして初めて相手に通じるものです。たった一言でお互いの気持ちが緩むのなら、意識して発信するよう心掛けなければならないと思うのです。

とは言いつつ、その女性にこんなコメントを付け加えました。

「私なら、カレーを作り、家族が食べる分だけ小分けして胡椒を一瓶入れる。自分には普通のカレーを盛り付け、一緒に平然と食べ始める。『ギャ~ッ! ゲェ~ッ!』と言われたら、『私の有難さが分からないから天罰よ』とでもいいながら高笑いするんだよ」

003 これもあまりいい方法じゃありませんけど、上手く笑いに替えられたら、翌日からは「楽しい団欒」が待っていると思うのです。

何事も、周りへの配慮と感謝が一番大切だと思うのです。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「テレビ番組に支配されない!」=生かされている意味さがし(86)

86 テレビ番組に支配されない!=生かされている意味さがし(86)

私の机の上に「笑点」メンバーの家紋の入った湯呑茶碗があります。コースターも「笑点」の座布団を模したものです。仕事の中でのホッとするスポットであり、絵画のように時折鑑賞するようなものでもあります。

年月は速い、と何度も書いていますが、毎週日曜日が始まりだとすると、「笑点」を見て、「奇跡の地球物語」を見て、翌日からの仕事に備えます。

「人生の楽園」や「笑福亭鶴瓶の家族に乾杯」などお決まりのテレビ観賞が一週間の曜日と速さを教えてくれます。

他愛もない笑いと涙を繰り返し、自分に重ねあわせ、あるいは振り返って幸せを実感し、春夏秋冬の日々を過ごしています。

余計なお世話なのですが、歌丸さん体調はどうなんだろう? 第二の人生で南の国を選んだテレビの中の夫婦は、実家や墓をどう処理するんだろう?

「なんでも鑑定団」で紙屑同然と評価された骨董好きのオヤジさんは家でどんな罵声に遭うのだろう?……と、いろいろな心配をしますが、それも身近なことではないので肩の力を抜いて思いを巡らせることができます。

テレビの観賞が疲れるようになってきたのも感じています。正月番組から始まり、バラエティ番組で出演者が視聴者を気にしないで自分達だけで楽しんだり、騒いだりしている姿をだんだん敬遠するようになってきました。

番組の意図するところやコンセプトが分からないのです。当たり前ですよね。そんなこと考えてバラエティ番組なんて作っていませんよね。だから、なぜか、歳をとると「日本放送協会」の番組がスッと心に溶けて入って来るようになったりします。

「NHK放送受信料」に抵抗を感じていた自分が、「まぁ時々観ているから払っといてもいいかぁ」という気持ちになったりします。(笑) これは凄いパラダイムシフト?!ですよ。

もともと、テレビは観ない方でした。というより子どもの頃はテレビを観られる時間が決まっていましたし、一家に一台環境でしたから、「自分の好きな番組を選択できる」という権利と確率は少なかったのです。

ですから、観なくても良い(平気な)生活習慣が生まれていました。意外と思われますが、本棚にある童話を何度も繰り返して読んでいました。

ある時、「11(イレブン)pm」という番組がある! と同級生に言われて目をこすりながらチャンネルを合わせたら、「かたせ梨乃」の豊満ボディに悩殺されるものの、睡魔との天秤では視聴も長続きしなかったという時代もありました。

003 ある意味、集中力がないんですね。テレビは「生活の一つのアイテム」として今後も我が家にそっと佇んでいると思います。テレビが家庭を支配しないように心掛けています。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「ペット」ではなく「家族」=生かされている意味さがし(85)

85「ペット」ではなく「家族」=生かされている意味さがし(85)

愛犬の死に直面して、「もっと優しくしてあげれば良かった」「もっと触れ合う時間を大切にすれば良かった」と後悔している方も多いでしょう。

我が家も二六年六月に十五年間連れ添ったラブラドールの「かん吉」が亡くなりました。

いつ亡くなってもいいようにと、妻が付き添っていたときに、「クワァ~ン」と一鳴きして息をひきとったそうです。

職場から駆けつけた私も、まだ温かいかん吉に掛けてあげられる言葉が見つかりませんでした。妻は泣き崩れ、夜中も添い寝をしながら過ごしていました。

お葬式をして、ペット専用の火葬場から小さな骨箱に入れられて帰ってきました。今は庭先の小さなお墓の中で眠っています。

「家族の死と同じなの。立ち直れない」と妻は言っていました。「もう、犬は飼えない」とも言っていました。私もそのときは同じように思っていました。

ペット(愛玩動物)という表現より、しゃべらない家族って感じでしょうか。大切な子どもを失ってしまったような「やりきれない気持ち」もそこにはありました。

ペットロスという言葉があります。大切な動物を失って精神的にダメージを受けたり病気になったりすることもあるそうです。ペットロス協会なるものがあって、そういう方々のカウンセリングまでやっています。

我が家も、子ども達が家を離れているので、そういう気持ちになっていたのかも知れません。

その後、妻とはペットショップや、大きなホームセンターのペット売り場にはいきませんでした。

が、最近、私は自分一人でこっそり行ったり、自然と足が向いてしまうことがあります。かん吉と同じ目をしている犬を探したりしてしまいます。

でも、やっぱり可哀想な気持ちになります。人間の都合で「セール期間中」と貼られたゲージの中で寂しそうにしています。こっちを見て、「助けて。ここから出して!」「僕を(私を)飼って!」って聞こえてきます。

そのとき、「もっと優しくしてあげれば良かった」「もっと触れ合う時間を大切にすれば良かった」という後悔をまた繰り返すのか、という天の声が聞こえてきます。

003 たぶん、もう飼えないでしょうし、飼う資格がないのかも知れません。四番目の子どもとして、食事のときにテーブルに顔を並べて坐っている「かん吉」の表情が忘れられないのです。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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「教育に関する持論」=生かされている意味さがし(84)

84 教育に関する持論=生かされている意味さがし(84)

子どもは野山を駆け回って、伸び伸びと素直に育つことが望ましい! と誰もが考えているのですが、「学歴社会」という目の前にある現実に、親は尻を叩き、塾に通わせ、光の当らない世界へと引きずり込んでしまいます。

一流大学を出て、霞ヶ関に勤務してキャリアと呼ばれながら、あわよくば官僚になり、壮年期には外郭団体に天下って悠々自適の生活をする。もっと上を目指せば、地元に帰ったり、落下傘部隊となって国会議員や知事という職業に就く。

これが人生の中で最大の幸福なのだ! という「サクセスストーリー」もあったりして、国民総じて?!そこに向かって競争をしているようにも感じてしまいます。

子どもの頃のサッカー選手や野球選手、保育士やパティシエなどという純粋な憧れや夢はどこにいってしまうのでしょう。

親と社会が封殺してしまうのでしょうか。我が家は三人の子どもがいましたが、長女で子育てを経験・学習したので、二人目からは塾には通わせませんでした。

徹底して、家での勉強を強要することはせず、「授業を聞いていれば、(学習)塾にいく必要はない。宿題が出されたからといって無理やりしなくてもよい。忘れた! といって廊下か教室の後ろに立たされれば済むこと」と言って、家の机に向かわせることもしませんでした。

ともすると、子どもは家で勉強や宿題ができないのですから、焦って学校の放課後に宿題をやったり、授業を真剣に聞くようになりました。次女、長男の授業参観での子ども達は予想以上の集中力をみせていました。

担任からは、「授業中の自分に向ける視線が凄すぎる」「聞く姿勢が素晴らしい」と絶賛され、学生時代に「教師の子守唄?!」に熟睡していた私とは大違いの成績も残していきました。

ただし、進学(受験)に係る傾向・対策の勉強は学習塾が勝っているので、高校・大学の進学には余計な苦労もありました。

もうひとつ、親には重大な作戦があったのです。三人の子ども達を大学に進学させる! という目標は相応の費用負担を伴います。平凡なサラリーマン家庭での学費捻出は至難の業でもあります。

いかに日常の経費削減を図るかですが、学習塾の経費はハンパない金額ですよね。数科目で数万円という月謝は家計を圧迫してしまいます。「だから塾には行かせない!」という方法・便法を編み出す必要があったのです。

学習塾は子ども達の社交場でもあるので、一時は勉強とは違う意識で塾へ行きたがります。

「塾は駄目。意味はない。お金も掛かる。けど、お前が授業中一生懸命先生の話を聞いて、(学期毎の)通知表順位が一番上がったら一万円のご褒美をあげる」

と、そそのかすような話をしていました。

一学期三ヶ月とすると塾の経費は五~十万円は掛かる。子ども達への説得で了解されれば一万円で済むのです。順位が一番上がるという簡単で実行可能な数字は、子どもにもハードルが低いし、何よりも一万円は魅力的な金額です。年間にしても三万円で済むというエコ教育でもあります。

成績が一番上がるというのは、試験でいうと1問か2問の差でしかありません。子どもは実現可能な目標にモチベーションも上がり、効果が期待できます。

そして、一番づつ確実に上がっていってくれると、中学・高校は三学期×三学年あるので、九番は成績がアップするということです。最下位の子どもが中間に、中間にいた子どもが上位になるということです。塾の効果よりかなり具体的で現実的なものです。

003 ……という、子育てが正しいかどうかは別として、作戦は見事に成功しました。これを、我が家では「松谷家の教育実践論」と呼びます。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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「後悔と喜び」=生かされている意味さがし(83)

83 後悔と喜び=生かされている意味さがし(83)

テレビを観たり、仕事でいろいろ経験したり、自分以外の人達を見て、その生き方や活躍を目の当りにすると、「なんで俺は中学、高校と怠けて勉強しなかったんだろう」「ちゃんと将来の目標を持って大学へ進学したり、就職を考えなかったのだろう」と思うのです。

後悔しても始まりませんが、「今の自分の気持ちとか姿勢があって、もう一度タイムスリップできたとしたら……」と、思うこともしばしばあります。少なくとも今の自分を当時分かっていれば、もっと努力を惜しまなかったかもしれないと思うのです。

夕飯を食べながらテレビに向かって、そんなことボヤくことも度々あるのですが、そんなある日に、脇で食事をしている妻が、「あなたが勉強しなかったから今があるんじゃないの?!」「そうじゃなかったら私とこうして巡り会っていないし、あんな三人の子供達も出来なかったんだから……」と、なんとも変な励まし、説得力なのです。

そうそう、この本を書くきっかけもそこだったんです。

手前味噌になるけれど妻のおかげで三人の自慢の子供達がいます。性格が親父似で決して褒められるものではないけれど、結婚しても近くにいてくれる、何よりも可愛い孫も産んで我が夫婦に希望を与えてくれる長女。

東京で一人暮らしをしていて、結婚という言葉から遠のきつつありますが、日本一家族と姉弟思いで驚異の記憶力を持つ次女。

そして高校から博多に行って、博多に就職した日本一努力家の長男。妻がいなければこの三人の存在はなかったはずです。

妻も、家族愛が人一倍強く、時に「鬱陶しい」ときもありますが、そのお蔭で私や私の家族の今があるのです。しょっちゅう喧嘩もするし、「タイムスリップしたついでに、綾瀬はるかと出会っていたら……」などと妄想もするのですが、今の幸せを喜ばなければいけないし、そういう反省と自戒、父親の生き様を伝えるために本を書こうと思ったのです。

003「高校受験を失敗したことに、大学に行かなかったことに意味があった」と妻に諭される自分も、日本一幸せだと思わないと地獄に堕ちそうです。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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