「世の中“カネ”かなぁ~」=生かされている意味さがし(62)

62 世の中「カネ」かなぁ~=生かされている意味さがし(62)

お天気に恵まれた日は、妻や孫、米寿の父親を連れてドライブに出掛けます。

一人のドライブや妻と二人だけのドライブの方が気が楽なのですが、普段気にかけていても何もしてあげられない父や孫へのサービスも大事な休日の仕事の一つです。

ただ、一時間も経たないうちに、「俺はもう帰る」と言い出したり、渋滞で、「金を払っているのに(車が)動かないのは怠慢だ」と高速道路の会社に文句を言い始める父には愛想が尽きますし、我が愛車の中でジュースやお菓子をこぼし続ける孫にも笑顔が途絶えてしまうことがあります。(笑)

さて、今日は久しぶりに夫婦でのドライブ。他に気を遣う人間がいないので妻もゆったり助手席でくつろいでいます。

昨日、思いつきで当日予約した安い温泉宿を出発して、長野の善光寺の御開帳と天秤にかけた結果、軽井沢のアウトレットモールでのショッピングを選択しました。上田から、小諸、浅間山の麓の緑を満喫しながらのドライブです。

アウトレットモールは、メーカーのブランド品などを百貨店などより低価格で販売するアウトレット店舗を一箇所に集めモール化したものの総称です。近年、全国各地で整備され、近県からも集客できる広域ビジネスの代表格です。

御殿場やりんくう、佐野、木更津、酒々井などがテレビでよく紹介されていますね。

混雑をさけて開店三十分前に駐車場に入り、スタバでコーヒーブレイクの後、広大なショッピングモールを見学?!です。

これだけの人が良く集まるものだと感心しながらも、二つのことが頭にありました。

一つは、毎回百貨店での買い物でも気持ちが萎えてしまうのですが、「結局、懐が寂しいと何を見ても楽しくない」という気持ちになるのです。目的があって、お金があるからショッピングは楽しいわけで、買えもしない、買うことの出来ない高嶺の花を見ていても、財布が薄ければ見比べたり、店員さんと交渉する楽しみもありません。

家で「ニッセン」のカタログを見ているのと同じ感覚です。私のような貧乏人はもともと来るべきところではなかったと反省もするのです。

さらに、「このブランド品が安い」というイメージが湧きません。百万円のバッグが五十万と言われても、だったら一九,八〇〇円のバッグの方に目がいきます。

もともと他人のバッグを見てもブランド名が分からないので、「あの人、お金持ちなのになんで本革のバッグじゃないんだ?」とまったく現代の価値観に追いついていない自分がいます。

もう一つ、裏日本いやいや日本海側の妬み(ねたみ)に近い考えが浮かびます。年間通じて賑わうアウトレット。店舗以外にもいろいろな仕掛けやアイテムがあって飽きない空間があります。

雪国では、冬場の降雪を考えれば屋外のアミューズメントは三分の一から四分の一の季節で制約を受けることになります。

また、降雪や除雪のために本来の景観を損なうような設えも必要です。いつも心の底にある「日本海側(雪国)は不利」という言葉が浮かんでしまうのです。

商圏人口は顕著で、圧倒的に人口密度の少ない田舎では集客も不利に働きます。少子化、高齢化に加えて、若年層が相変わらず都会へと流れていってしまう地方は、アウトレットをつくることも行くことも容易ではないのです。

003 あまり安くない商品(と思う)をウインドゥ越に見るだけのアウトレット探検は二時間で終了となりました。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「旬を味わう」=生かされている意味さがし(61)

61 旬を味わう=生かされている意味さがし(61)

体長が六十センチ以上もあろうかという「鰹」を太平洋側の知り合いから送って頂き、まな板に乗りきらない魚の処理(捌き)を久しぶりにやりました。

そうそう、北海道の生鮭を頂いた時以来でしょうか。元来、魚の捌きは自分でやるのですが、こういう大きい魚には手を焼いてしまいます。

日本海側では鰹を好んで食べる人は少ないように思います。魚の臭みをニンニクや生姜で消して食べるという習慣も一般家庭では珍しいことでしたでしょうし、新鮮な鰹そのものが流通していなかったということもあるでしょう。

酢で〆ることはあっても鯖や鰯も生で食べることはなく、煮付けにする!という家庭が多かったのではないでしょうか。

その鰹を捌きながら、我が家では食べきれない分をどう処分しようか、「あの家は鰹は嫌いだろうな」「あの家は今日中(新鮮なうち)に食べて貰えないかな」といろいろ思案しているうちに柵(ブロック状)まで完成。

その一つを刺身にして妻と試食。あれっ? まったく臭みもなく醤油をつけて食べると「鮪(まぐろ)の中トロ」と区別がつかないのです。夫婦でペロリとたいらげながら、「そうだ!この感じは……」と思い出しました。

食べ物で嫌いなものは沢山あるのですが、高級店での新鮮な牛肉、採りたての雲丹(ウニ)、九州のゴマサバ……。本物、旬の食材は本当に美味しいと思うことがあります。

「今まで(一番最初に)食べた食材はなんだったのだろう?」と思ったりもします。

野菜だって、果物だって同じです、長野のとうもろこしはフルーツでした。青森のゴールドラッシュの味はとうもろこしの概念を変えました。淡路島の玉ねぎも生で食べずに炒めたりすると「もったいない」気持ちになります。熊本の「はるか」という苺はスイーツを超えていました。

003 旬のものは美味しいということを改めて思い知らされます。今のコンビニやスーパーは一年中何でもあります。本当に美味しいものを私達は忘れてしまったような気がしています。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「途中(経過)を味わう!」=生かされている意味さがし(60)

60 途中(経過)を味わう!=生かされている意味さがし(60)

何事も、最初のキッカケや結論がクローズアップされて、その途中の出来事や展開が抜けたり省略されたりします。

仕事や、生活ではなく、季節の移ろいにもそんなところがあって、「桜が咲いた」「夏の海水浴が始まった」「紅葉がきれい」「スキーシーズン到来」と話題になっても、その間のゆっくりとした「春・夏・秋・冬の狭間」、この「・(ドット)」を感じ取ることはなかなかありません。

人生を振り返ったり、与えられた命をしみじみ考えたりすると、その経過や途中のストーリーをも味わう余裕がでてくるものです。

雪から顔を覗かせるフキノトウや、まだまだ頭上ではなく山の稜線の上に低く軌道を描く太陽の光に、朝露を身にまとう土筆(つくし)、五月晴れから梅雨に向かう家の中の笹(新潟名産の笹団子)の匂い、その梅雨明けから初夏の日差しに繋ぐ最初の蝉の声、初秋いや晩夏も忘れて群れをなす赤とんぼに山間(やまあい)の高速道路の斜面を埋め尽くすススキの絨毯。

紅葉の前に緑葉がくすみ始めて冬の準備をする木々たち……。こういう、季節の感じ方を若い頃は出来ませんでした。「しなかった!」という方が正解なのかもしれません。

今日も肌着で感じていました。ボクサーパンツから薄手のトランクスになり、下着も半袖からランニングシャツになった。

そういえば髭剃りも洗面所の蛇口から少し時間の掛かる温水を待つこともなくなった。この、今の思いや時間を経て、「春を、桜を味わおう!」と思うのです。

最近、若い世代の就職直後の離職が多いと聞きます。「こんなはずではなかった」「辛い、厳しい」と言い訳はあるのでしょうが、今の自分から将来の自分(結果)を想像できないのでしょうか。

今が、過程であり途中なのだという意識があれば耐えられるし、また味わうこともできると思うのです。現代社会は若者が簡単に「起業」ができます。OA・IT関連で二十~三十代の社員で構成されている会社は象徴的でもあります。

血の滲むような努力もあったのでしょうが、その途中や経過が極端に短いことが多いのです。悪く言えば「経験値」という言葉が会社の中で醸成されていないことになります。

数年で結果がでることが悪いのではないのです。長い間の経過があって、変遷を経て会社が盤石になったり、自身が仕事に結果を出して成長したり、役付きになったりしていく。

……という過程もまた大切であり、そこを見ている人達もいるということを知って欲しいのです。

003 今、新潟の桜は蕾。関東以南の満開の桜はもう散り始めています。私はこれからその過程を味わうことが出来ます。少し幸せを感じています。

「人生は想像力の膨らみで流れている」

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「秋冬」=生かされている意味さがし(59)

59 秋冬=生かされている意味さがし(59)

十一月も暦のうしろのページで待っていて、雷と一緒に降る「あられ」も冬の到来が近いことを告げています。新潟の冬の準備は十月の末から始まります。

こたつの用意をして、灯油のポリタンクを持ってガソリンスタンドに並び、物置からスノータイヤを引きずり出して、冬囲いを庭師に手配します。

一年の巡りが早く感じるのはいくつ位の年齢になってからでしょう。瞬く間に過ぎ去る季節を惜しむことが多くなってきました。

今、こうしてパソコンを打っていても、普段なら光が差し込むとブラインドを下ろすのに、今日は何故かディスプレイに揺れる木漏れ日を楽しんでいます。この影でしか、存在を私に伝えられない紅葉もあと幾日かで風に誘われてどこかにいってしまいます。

秋が物悲しいのはどうしてでしょう……。

いつか、「人が歌に聞き入るのは悲しいとき・寂しいとき」と誰かが言っていました。エネルギッシュに活躍しているときは、「歌は聞かない」のだそうです。

ふと寂しくなって、辛くなって自分を見つめ直すから、自分に寄り添う歌が心に響くというのです。

そういえば、秋になって、SDカードにある流行りの曲の中から中島みゆきなんかをチョイスしたりします。

003自分をさらに追い込むような曲の選択をしているようで、少しおかしな気もしますが、身体の中にも「秋」を沁みこませる作業なのでしょうか。

自分の終わり方をふと考えてしまいます。伯父の危篤が続いています。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「開花した大宮の桜」=生かされている意味さがし(58)

58 開花した大宮の桜=生かされている意味さがし(58)

三月半ば、仕事で上京する機会がありました。昔に比べて地下鉄や関東圏の鉄道網が発達しているので、池袋や新宿、神奈川方面は大宮で降りて埼京線や湘南新宿ラインに乗り換える方が利便に感じます。

今回も新宿での会議だったので、上越新幹線を大宮で乗り換えて新宿まで快速で向かいました。その直後に、車窓の外に目をやると桜が満開になっているではありませんか。

いや、正確には少し葉桜になりかけています。そこには「大宮 操の桜」という看板が立っていました。

大宮操車場の川津(カワズ)桜(ザクラ)。樹齢百年だそうです。二月中旬から開花するというのだけれど、自分はつい一時間前、川端康成の「トンネルの向こうの雪国」の景色を見ていたはずです。山ひとつ越えて関東の春には驚かされます。

とくにこの「操の桜」は、私がお気に入りの福岡の大濠公園周辺の桜より早い開花だと思います。

同じ日本人でありながら、狭い日本という国に住んでいながら、この季節感のギャップを、時空間をどう理解すればいいのだろう?! と頭を悩ませてしまいますね。

桜の木も他の草木もその場所で「命」をもらったが故に、その地に則した生き方をしなければなりません。

操車場に咲くその桜の木も、ひょっとしたら新入学の子ども達を見守る季節に花びらのシャワーをプレゼントしたかったのかも知れません。

新潟の桜は、新学期も始まり、四月の中盤から後半に咲き誇ります。お花見も賑わいますが夜は寒くてビールで乾杯するにはちょっとした勇気も必要です。

そのタイミングでの開花も「春の息吹」には間違いないのですが、マスコミの盛り上がりはすでに終わっていて、弘前城の桜と同様「晩春の話題」に近いものがあります。

どこで開花するのかは前述のように「その地に則した」タイミングなのでしょうが、人間だって芽吹きも、開花も、散り際も人それぞれです。

早咲きの大成した人を羨んでいても、実は自分は「大器晩成」という結果だってあります。羨ましく思っていた早咲きの人はすでに隠居の身かも知れません。

私は、一生に一度、誰でも「輝く時間」があると思っているのです。桜のように淡い色だったり、桃色のような強い色だったり、人に愛でられている時間が長かったり、あっという間だったり、あるいは人に愛でられることなく山里にそっと咲いていたり……。

でも、その時間は必ず「ある」と思うのです。その時間を見失うことなく、ここだ! と思うことと、その与えられた時間を精一杯「生きる」ということだと思うのです。

それは、自分自身が「生きた証」を感じ取れるという時間でもあります。

桜は日本人にとっては特別なものですが、雪国の人達にとっても特別なものでもあります。

春の息吹を自分の人生と重ねてみたくなる季節です。

003早春の風に身を任せている大宮の<操の桜>が、雪国の私にそんな思いをプレゼントしてくれました。あっ、そうそう、今度福島県冨岡町の桜を見に行きたいなぁ~。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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