「公人のつぶやきⅡ」=生かされている意味さがし(54)

54 公人のつぶやきⅡ=生かされている意味さがし(54)

「ほぼ間違いなくそうだろう!」「みんな誰もが本心ではそう思っているはず!」ということを不用意に公人が発言すると、政界からもマスコミからも非難を浴びてしまって全ての地位や権力を失うことになりかねません。

沖縄問題でマスコミや県民を批判した百○さんも、県民や新聞社からの反撃にあってしまいました。

これは、前回出版した拙著にも書いてありますが、公人は「呟いて」も「ささやいて」も公言となります。

そこを忘れてか、あるいは発言の一部を切り取られて意図しない言質となってしまいます。その人本来の考え方を歪曲されて世間に伝わってしまうのです。

私は、今の世論やものの考え方にどうしても疑問を持ってしまいます。

「本音」と「建前」……。本来、他人(ひと)に伝えるべきは本当の自分の気持ちということになります。上辺や、周りの状況に呼応して、その場面や自分の保身などで、本来の気持ちではない「あるべき論」の発言を「建前」の発言といいます。

その中間にあるのが、「相手を思いやる言葉」だと思っています。

誰もが、物事の善悪や、本質を見極めるときに「建前」の言葉を求めることはありません。「本音を聞かせてくれ!」というのが普通でしょう。

ところが、「本音」を言われると途端に自身の琴線に触れたがごとく、烈火したかのように感情的に相手を攻め立てるのです。

与党の重鎮が言葉を慎重に選んで発言します。その奥にある言葉を想像しながらテレビを観ているのも難儀なものです。

だって、「馬鹿野郎! てめぇなんかカエルに踏まれて死んじまえッ!」って思っていても、「誠に遺憾であります」ってね。

003せめてウィットに富んでいたら、「誠に私はヤカン(状態)であります」くらい言って欲しいなぁ~。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「児童の犯罪を考察する」=生かされている意味さがし(53)

53 児童の犯罪を考察する=生かされている意味さがし(53)

「小学生が放課後校庭内でサッカーボールを使って遊んでいた。ボールが外に飛び出し、避けようとした老人が死に至った。子どもに賠償能力はないが、親の管理監督責任があるとして損害賠償を裁判所が命じた。」

……二七年四月、この問題が大きくマスコミにクローズアップされました。

街頭のインタビューで、「自分の子どもが起こした事故だから親が支払うのは当然でしょ!」とのコメントがありました。

そうかも知れません。ただし、数千万円の損害賠償は家庭の崩壊を意味します。司法の判断をとやかく言うつもりはありません。自分の子どもがそのような事故を起こしたらどうなるかを多くの国民は想像したでしょう。

当たり前に、それもかなりの確率で自分の子どもに起こり得る事故です。もちろん故意でやったわけでもないし、道路上で遊んでいたわけでもありません。

この報道を聞いていて、二つのことが頭をよぎりました。

一つは我が子が小学生の頃、近所のご婦人を自転車ではねてしまいました。というよりぶつかったのです。そのことを知り、妻は小学生の本人を連れて何度も謝罪と見舞いに行きました。小さな子どもとの衝突でしたが、道路に倒れ、顔面は大きく腫れ上がり、起こした事故に息子は蒼ざめていたのです。

ご家族には相当の御怒りを受けましたが、ご本人は最後には、「もう大丈夫だから来なくて良いよ」と気遣って頂きました。今回の状況と同じですが、田舎である故に最低限の行為(謝罪)で済んだかたちとなりました。それでも、わが家族はその事故のことを心にずっと引きずることになったのです。

もう一点は、「『親の管理下』という名の責任」がどこまで及ぶかです。私達の子どもの頃とは状況が違うかも知れませんが、故意によらない事故の防止をどうやって防ぐか? ということになります。

共稼ぎの勤めを辞めて、夫婦どちらかが学校に迎えに行き、近所の公園にも行かせず、ずっと家の中でゲームをさせていない限り、この手の事故は完全に防げないと考えるのです。

この法制の判断が定着したとしたら、日本の子育て環境は大きく変わるでしょう。後退ではなく、根本的な子育て・育児の変容を迫られてしまいます。今まで以上に子ども達の健全な成長は阻害されるでしょう。

アメリカでは子どもを学校に迎えに行かないと、避難されると言います。近くのコンビニに、「ちょっと行ってくるね!」と言われて、「行ってらっしゃい!」などと単独行動させたら大変なことになる! と言います。

003「犯罪に遭わないための自衛手段」なのです。でも、今回のことは違います。「犯罪を犯させないための自衛手段」を迫られているのです。

司法判断と一般社会の常識が百八十度違う事例を見てきましたが、私達には理解できないルールや処罰が多いように感じます。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「自国を愛する気持ちと従軍」=生かされている意味さがし(52)

52 自国を愛する気持ちと従軍=生かされている意味さがし(52)

毎回、韓流ファンの皆さんの心を痛める「韓国の徴兵制度」。一番脂の乗っている時期にスター(芸能人)が徴兵されます。それも涙で……。

「国防のため」という大義の中で涙が出てしまうのは、「悔しさ」と、「脚光を浴びることのない軍隊組織」に埋没してしまう無念なのでしょうか。

日本には徴兵制度はありません。国防は全て自衛隊に入隊(就職)した、いわば「志願兵(隊員)」で構成されています。

私達の親の時代はまさに戦前・戦中に青年期を過ごした年代です。義父自身も義父の兄弟も志願して特攻隊や陸軍に従事して終戦を迎えました。

晩年、酒を交わしながら幾度となくこんな話を口にしていました。

「戦争はあってはならない。でも戦わなければならないこともある。大陸では地続きで隣に国がある。攻められれば国を守るために戦わざるを得ない。女こどもが犯され、殺されるのは当たり前だ。家族を守って戦わなければならない。呑気に戦争反対! と言っているのは今の日本人だけだ!」と。

「侵略」という言葉も意味も分からず、「戦争反対」と声高に言っている国はいつか滅びてしまう!というのです。

適切な言い方ではありませんが、戦争を身をもって体験した人だからこそ説得力もあります。

そういえば、中国の人達の多くはまず自分の主張をします。戦う(闘う)ことに慣れているようにも思います。中国の歴史も、繰り返される戦乱の中で綴られてきたものです。まず、自分や家族を中心に考え主張する。次に周りや国という考え方です。個があって全体があるという感じなのでしょうか。

日本は全体の中の個、全体の中に自分を置くことが多いように思います。「平均」とか「中庸」とか「無難」とか「大勢」という言葉の中で物事を判断していきます。

さらに、日体大が披露する感動の集団行動では「個」という存在は微塵もありません。「個」を完全に消さなければなりません。敢えて言えば「個」ではなく「駒」なのです。

「JAPAN野球」も高校野球もシステマチックで、個の能力を優先して勝負をするというより「フォア・ザ・チーム」で戦いに挑みます。野球に限らずスポーツ全体もそうだし、社会活動やマクロ経済、市場の動きも個の企業や人間が先行することは珍しいと考えています。

「大陸」と「島国」。考え方も生き方も違うようですね。

昔、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と日本の聖徳太子が揶揄しましたが、今、中国はPM2.5を揶揄して「俺たち中国の吐いた息(PM2.5)を吸っている日本人」と言っているかも知れません。

003 尖閣諸島の防空識別圏問題や東シナ海のガス田問題。「やったもん勝ち中国」には、しっかりと議論と世論で戦って欲しいと思っています。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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「モノの言い方を考える」=生かされている意味さがし(51)

51 モノの言い方を考える=生かされている意味さがし(51)

「怒る」と「叱る」、あるいは「当たる」というのは違う! と常々私は思っています。

躾や道徳的な指導を意図して「叱れない」親、自分の気持ちをコントロール出来ずに子ども達に「当る」親……。

今どきの親をみていると呆れたり、切なくなったりします。自分の都合だけで、自分中心に考えて生きているようにしか見えません。

さて、そういう自分はどうでしょう。本当に冷静に叱る、示唆する、諭すということが出来ているのでしょうか。

そもそも、このような「怒る」「叱る」という言葉、相手との立ち位置からいうと、「自分が上に居ての物言い」となっています。果たして相手より自分の方が、人間としての器があるかとか、成熟しているか、というのは甚だ疑問が残るところですね。

相手の尊厳とか、生き方を肯定するなら「助言」とか、「参考意見」さらに下って「具申」とか、その程度しか踏み込めないのではないでしょうか?

自分を棚に上げて置いて「何者(もん)だ!」と言われそうです。

人を指導したり、説教した後の高揚感(快感)と味気なさ(虚無感)は、いったい何なのでしょう? 人にとって適切な言葉とは思えません。

003 子どもの成長に従い、私は子どもたちに「叱る」ということを止めることにしています。

どう考えても私より子供たちの方が大人に感じるからです。(笑)

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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随想

「穏やかな人間になろう」=生かされている意味さがし(50)

50 穏やかな人間になろう=生かされている意味さがし(50)

「イライラした後に、そのイライラ度を考えるのだ」と、どこかで聞いたことがあります。

怒ったあとにその度合いを考えるのも同じ。MAXを十として、今のイライラ度は三なのか、八なのかとよく考えます。そうするとイライラしたり怒っていたことが、大したことではない、自分自身がこんなことで……、と考えてしまうというのです。

いわゆるクールダウンの一つの方法でもあります。イライラするならともかく、その矛先を妻に向けて、朝の出勤までの時間を台無しにしてしまったときは、この度数評価とともに、猛省もすることとなります。天に唾をしたような状況ですね。(笑)

旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」の言葉の本質は、「復讐や報復をしてはならない」という意味なのだそうですが、松谷的解釈は、

「叩かれたときは、その痛みを知って相手を叩く、……としたら、その力には『加減』というクールダウンが作用する。倍返しのような心持ちでは人として失格です」って感じなのでしょうか。

たしか、アントニオ猪木の気合のビンタも、「人の痛みを分からせる意味がある」と言っていたような……。でも痛そう……。

とにかくイライラしたら、度数を考えることにしましょう。

もうひとつ、交通渋滞のイライラ。これも最近は完全にはなくなりませんが、我慢ができるようになりました。

順調に行っていたらこの先で事故に遭っていたかも?! と思ったり、サービスエリアで偶然美味しい物を見つけるための必然の渋滞……、と考えるようにしています。でも「おしっこ」は我慢できない! イライラを超えてしまいます。

社内での仕事のミスや、トラブルもあります。

当事者を呼んで厳重注意をしなければならない時もあります。

003本当に叱らなければわからない人には、きちっと強めに指導をしますが、普段の仕事ぶりや、既に本人が想像以上に猛省している時は、「きつく叱ったことにしておくから!」と、穏やかに伝えることもあります。そのことでさらに反省をする人もいます。

ことさら厳しい口調で言うよりも、穏やかに諭すほうが相手の心を打つこともあるのです。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

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