今日のことば(28)「われ人に勝つ道を・・・」

◎ われ人に勝つ道を知らず、われに勝つ道を知る

江戸時代の剣術家 柳生宗矩

徳川家康に新陰流兵法を教えて、幕府体制の中での柳生家の地位を築いたのは宗矩の父宗巌だが、父の命によって宗矩は関ヶ原の戦いから徳川軍に参加していた。この功によって柳生家は、豊臣秀吉によって没収されていた旧領(柳生村)を回復、五百石を与えられて、後の将軍家指南役になるきっかけを得た。他人に優るためには、まず第一に、あれもしたいこれもしたいという己の欲望に耐えて、修練に励むことが大切である、という教えである。

今、ソチで冬季オリンピックが開催されているが、その選手一人ひとりがこのような道を歩み鍛錬・精進を重ねてきていることであろう。学ぶべき言葉である。

今日のことば(27)「少にして学べば、壮にして・・・」

◎ 少にしてして学べば、壮にして為すあり

ー江戸後期の儒学者 佐藤一斎ー

江戸後期の儒学者・佐藤一斎は幕府の昌平黄の教授を務め、その門下から渡辺崋山、佐久間象山ら数多くのすぐれた人材を輩出させた人。この言葉はその主著「言志四録」にあり、さらに「壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず」と続く。すなわち、少年のときによく学べば壮年となって後仕事として立派に実を結ぶ。また、壮年のときによく学べば、老年となっても気力は衰えず、はつらつとした精神を持って仕事に当たることができる。さらに老年となってもなお学べば、充実した生涯を終えることができ、死後に名を残すことにもなる、というのである。

精神が柔軟で、吸収力のある若いときにさまざまなことを学べば、人生は必ず実り豊かなものにになろう。家庭教育しかり、学校教育しかりである。しかし、学問や教育は必ずしも学校を卒業することをもって終わるものではない。学問や教育は、ある意味で一生続くものであり、それぞれの人生の節目節目で、重要な役目を持っているのである。とりわけ、昨今は「生涯教育」が盛んに取りざたされている。これは、いわゆる老人の“ボケ”の問題と深いかかわりがあるように思われる。年老いることによって、肉体が若いころのような活力を失っていくのはいたしかたないこととして、精神まで若さを失うことはないのである。

人間の精神の若さや活力は、おそらく不断に学ぶという姿勢によってのみ保たれると、佐藤一斎も明言しているのである。生涯にわたる学問の重要さを説いているのである。幼年時代、少年時代、青年時代、そして成人して後も、それぞれの時期に学ぶことは多い。しかもそれぞれが、じつは連動するものであるという。若者には今学ぶことが将来につながるとして、老人にはそれが若い精神をもたらすとして、夫々に説きうる意味を持っているのである。

今日のことば(26)「朝寝は時間の出費・・・」

◎ 朝寝は時間の出費である。しかも、これほど高価な出費は他にない。

アメリカの鉄鋼王カーネギーは、子供のころから早起きし、寸暇を惜しんで働きつづけた。何事かを志し成し遂げる人は、みな早朝に床を離れる。そして、その日を征服したような爽快な気分のうちに計画的に活動を始めるものだ。職場によっては、早朝会議で実績をあげているところもある。個人的に早朝の英会話や簿記などの教室に通って、資格に挑戦している人もいる。全く朝寝ほど高価な出費はないのだ。日本でも俗に「早起きは三文の得」という言葉があることは、ご承知のとおりである。

早朝の自由な時間を、1年間何かの目的を定めて使いつづければ、それまで自分になかったものを、加えることができよう。年の初めに決起してみたい教えではないでしょうか。

今日のことば(25)「賽は投げられた」

◎ 賽は投げられた       

シーザー(ローマの政治家)

紀元前50年、ローマ帝国はポンぺイウスとシーザーの対立に元老院の思惑が絡んで、混乱を極めていた。いまやシーザーは属州ガリア(フランス)の総督として巨大な軍事力と財力を築き上げ、ローマ帝国で最大の富豪・実力者になっていた。これに対抗して、スペインと北アフリカの属州総督であるポンペイウスは元老院の反シーザー派を糾合した。そして、シーザーの政治的失脚を狙って、ガリア総督の任期が終了する前にシーザーのローマ召還をを命じたのである。

紀元前49年1月11日、シーザーはガリアとローマ帝国の境にあるルビコン川のほとりに、わずかな兵を引き連れてたたずんだ。兵を率いてその川を渡ることは、祖国ローマに弓を引くことであった。しかし3日前、自分を支持する者が全員、元老院を追放されたという知らせがもたらされていた。シーザーは最後の断を下した。その時、ギリシャの詩人メナンドロスの「賽を投げよ」という詩句に基づいて「賽は投げられた」と言い、自軍に数倍する兵の終結するローマに向かって、決然とルビコン川を渡ったのである。

事はすでに決した。事ここに至れば、もはや決断するしかないわけである。以来、この言葉は「敢然と行動を開始し、もはや一歩も引けない状況」を指して使われる。シーザーはこの決断のままに、少数とはいえ、長い間ともに戦場に起居してきた兵士らを率いて、疾風のようにローマに進攻した。一方、長く戦陣を離れていたポンペイウスは、戦陣の組み方も知らない多数の兵士を抱えて、敗走せざるをえなかったのである。

1年の間には山もあれば谷もある。新年にあたり飛翔する天馬のごとく飛躍発展する年にするためには、ここ一番の決断が必要な時もあろう。年の初めに噛みしめてみたい言葉である。

今日のことば(25)「昨日の我に飽きたり」

◎ 昨日の我に飽きたり

森川許六(江戸時代の俳人)

 森川許六は名を百仲(ももなか)といい、蕉門十哲のひとり。彦根井伊家の藩士で、俳論に秀で画もうまかったという。この言葉の意味するところは、文字の表現どおりであり、「今日の自分は新たに進歩した自分であり、昨日の自分ではない」というのである。毎日の仕事をとおして、進歩していくことを願い、自分を越えていくことができれば、どんなに素晴らしいことだろう。そうした生き方ができれば、仕事もまた、それにふさわしいものになっていくことであろう。

新年にあたり、心に留めておきたい言葉である。