自動車のとてもエレクトリックな未来

EVはきわめて重要なテーマであり、大手自動車メーカーの大半がバッテリーを動力源とするコンセプトカーあるいは量産車を昨年のロサンゼルスオートショーに出展した。
フォルクスワーゲンは、ファンキーでレトロな電気自動車「I.D」「I.D Buzz」、そしてSUVの「I.D Crozz」の3車種を公開した。
ジャガーが展示したEVのコンセプトカー「I-PACE」は、まもなく量産が開始される。

そして、シリコンヴァレーのスタートアップであるルシッド・モータースは、テスラと競合する同社の「Lucid Air(ルシッド・エア)」[日本語版記事]のプロトタイプを出展。
コンヴェンションセンター周辺の街路で試乗会を行った。

エネルギーを売る自動車メーカー

自動車メーカーは、もはやメーカーと呼ばれることを望んでいない。
「モビリティ企業」あるいは「エネルギー企業」が新しい呼び名だ。
なかでも、以前からグリーンエネルギーの推進に熱心なテスラは、ロサンゼルスオートショーの展示ブースで電気自動車(EV)だけでなく、同社のソーラーパネルや家庭用バッテリーも紹介していた。

この分野では、メルセデス・ベンツもホームバッテリーを展示した。
大きめの電子レンジをいくつか重ねたくらいのサイズで、光沢のあるプラスティックケースにバッテリーを収めてある。
太陽が出ている間にエネルギーを蓄え、夜間に利用するためのものだ。

自分で所有せずに乗るクルマ

将来は、一般消費者がクルマを買う方法も変わってくる。
長期的には自分で所有せず、必要なときに街路で自動運転タクシーを拾うだけになるかもしれない。
だが、もう少し近い将来の話として、自動車メーカーは消費者が契約書にサインしやすくなる売り方を考えている。
ボルボは、小型SUVである2019年型「XC40」の発売に合わせて、このクルマのリースプログラム「ケア・バイ・ボルボ」も導入した。

毎月定額(約600ドル)の支払いをするだけで、あとは自動車メーカーが車両代金、保険、保守、整備と、ガソリン代以外のあらゆる出費をカヴァーするというこのサーヴィスは、まさに「ケアリング(面倒見がいい)」と言えるだろう。
また、Fairというスタートアップは、同社の自動車リースアプリを宣伝している。その特徴は、消費者がリース契約に36カ月間縛られることなく、いつでも契約を終了できることだ。

日本における自動車の芽吹き(1898-1945)

日本では、1898年(明治31年)に初めて、海外から自動車(パナール・ルヴァソール)が持ち込まれる。
その後、日本でも、自動車製造の試みが始まっていった。1904年(明治37年)には岡山市で電機工場を営んでいた山羽虎夫が、国産車第1号とされる山羽式蒸気自動車を完成させた。このクルマは乗合自動車(バス)としての使用を目的に造られたが、ソリッドタイヤがリムから外れるというトラブルに悩まされ続け、倉庫に放置されるままとなり、乗合自動車の計画は実現せずに終わった。

1907年(明治40年)、純国産初のガソリン車で、また国産で初めて実用化されたガソリン自動車が誕生した。“自動車の宮さま”と言われた有栖川宮威仁親王殿下が、自動車の輸入・修理を行うオートモビル商会を設立した吉田真太郎と機械技術者の内山駒之助に要請し、10台ほどのガソリン車自動車がつくられた。
当時の人々に、このクルマがガタクリ、ガタクリ走ることから“タクリー号”と呼ばれた。

その後、明治末期から大正時代にかけて、自動車の国産化が数多く試みられたが、当時の日本の工業技術は、 まだ未熟であったため、国産化は成功しなかった。
このような試みのなかで、のちの自動車工業の確立に少なからず影響を及ぼしたのが快進社と白楊社であった。

1911年には快進社自動車工場が設立され、3年後の1914年(大正3年)年に乗用車の第1号「ダット」を完成した。

日本初の本格的な自動車生産は、白楊社のオートモ号が最初で、1925年に生産を開始し、230台が製造された。

しかし、欧米との技術の差はまだまだ埋めがたいものがあった。GMとフォードが国内でノックダウン生産(製造国が主要部品を輸出し、現地で生産すること)を始めると、市場は寡占状態になり、快進社、白楊社ともに解散してしまう。

1930年代(昭和)に入り、1932年(昭和7年)に日産自動車の前身となる“ダットサン商会”が設立され、翌1933年(昭和8年)にはトヨタ自動車の前身となる“豊田自動織機製作所自動車部”が設立、現在の日産自動車、トヨタ自動車が誕生する。

快進社は巡り巡って、ダットサン商会に引き継がれ、一方、白楊社の主要メンバーは豊田自動織機製作所自動車部に入社している。

その後、トヨダAA型やダットサン14型などの意欲的な国産乗用車生産の試みはあったが、戦前の日本車はトラックが中心だった。第二次世界大戦に向け、戦時体制が進むと、軍需用のトラックの製造が開始され、乗用車の開発は中断を余儀なくされることとなった。

自動車の量産化、普及へ(1900~)

1900年代初頭は、蒸気自動車がまだ主流であった。そんな中、フランスのド・ディオン・ブートンは、1900年の1月から翌年の4月にかけて1500台のガソリン自動車を販売。ガソリン自動車の生産・販売で世界をリードしたのは、フランスだった。

その後すぐ、アメリカが自動車産業界で圧倒的な存在感を示すようになる。ヨーロッパでは貴族の趣味としてスタートした自動車だが、広大な国土を持つアメリカでは広く大衆が馬車に代わる移動手段を求めた。1901年に登場したオールズモビル・カーブドダッシュは、同年に425台、翌年には2500台が製造され、アメリカ初の量産車となった。

自動車大衆化の象徴が、1908年に登場したT型フォードである。アイルランド移民2世のアメリカ人のヘンリー・フォードが1903年にフォード・モーターを設立、“大衆のためにクルマをつくる”ことを志し、開発されたクルマである。
簡素な構造で、運転も容易なこのクルマは、初年度に1万台が製造された。1913年には史上初のコンベヤラインが完成し、一日に1000台が生産されることになる。生産が終了した1927年までに、総生産台数は1500万7033台に達した。

自動車の大衆化の一助となったことがある。それは、1912年キャデラックに初めて採用されたセルフ・スターターの発明である。今では、エンジンスタートボタンを押しさえすれば簡単にエンジンはかかるが、昔は重いクランクハンドルを力いっぱいに回さなければならなず、女性や老人ではエンジン始動が難しかった。男性が操作してもハンドルが逆回転してしまうこともあり、これがもとで腕の骨折や、死亡してしまう事例もあったほどである。

自動車の大衆化が進むとともに、さまざまな高級車も出現した。1906年、イギリスのロールス・ロイス・シルバーゴーストは50馬力の6気筒エンジンを搭載し、静粛性とスムーズさで世界的な名声を確立した。ほかにもヨーロッパのブガッティやイスパノ・スイザ、アメリカのキャデラックやデューセンバーグなどの 極めて高価な高級車が登場し、貴族や富豪が競って手に入れた。

また、スピードへの憧れは、自動車をレースへと導いていった。1906年にはフランスで第1回ACFグランプリが開催された。 この時点では蒸気自動車のほうが速く、ちょうどこの年、速度記録に挑戦したスタンレースチーマーが205.4km/hを出している。ガソリン自動車が200km/hの壁を超えるのは、その3年後だ。
1907年にはイギリスに世界初の常設サーキット、ブルックランズが完成する。レースで競い合うことにより、自動車は飛躍的に性能を高めていくことになる。
アメリカでは、1911年にインディ500マイルレースが初めて開催された。
1923年にフランスでルマン24時間レースが始まり、1929年にモナコ・グランプリの第1回大会があった。レースは自動車メーカーが国家の名誉をかけてコンペティションを繰り広げる場となり、ベントレー、アルファ・ロメオ、メルセデス・ベンツなどが名勝負を繰り広げた。イソッタ・フラスキーニ、トーマスフライヤー、スタッツ・ベアキャットなどのスポーツカーも出現した。