軽自動車の白ナンバーが大人気!

軽自動車は、ボディが小さいために買い物などで駐車場に止めるときにはとても重宝します。
ボディが小さいといっても、最近の軽自動車の室内はかなり広くなっており、まったく窮屈さを感じません。
また、コンパクトさだけではなく、普通車にくらべて維持費が安いことも軽自動車の大きな魅力の1つといえるでしょう。
そんなたくさんのメリットがある軽自動車ですが、オーナーの多くが何とかしてほしいと思っているのがナンバープレートの色です。
普通車のナンバープレートが白なのに対して、軽自動車は黄色です。
もともと黄色は目立ちやすい色のため、軽自動車はナンバーのところだけが異様に目立ってしまうのです。
また、軽自動車だけナンバーが黄色いことで、なんだか普通車と差別されているようで引け目を感じてしまうという人も少なくありません。
このようにあまり評判のよろしくない軽自動車のナンバープレートですが、期間限定で「白」が許可されることになりました。
2019年に日本で開催されるラグビーのワールドカップを記念して、2017年4月3日から2020年1月31日までの期間限定で、特別仕様のナンバーが交付されることになったのです。
基本的には普通車も軽自動車も同じデザインで、ベースの色は白になります。
つまり、期間限定とはいえ、軽自動車オーナーに不評だった黄色のナンバーをつけなくて済むことになったのです。

旧車の魅力とは?

旧車の魅力とは?
維持の苦労と合わせての総合的な結論。
どの辺りから旧車と呼ぶのか調べてみると、いろいろな説があります。
一つの目安、日本クラッシックカー協会では、入会資格を37年以上前の車としています。
しかしあくまでもこれは一つの目安であって、旧車というジャンルがかなりメジャーとなってきた今、それほど区切りや定義にこだわる必要はありません。
あなたが「この車古くていいな」「かっこいい車が昔はあったんだな」と思ったなら、それが旧車ということでいいのです。

旧車、旧バイクに人気が集まる理由

今の日本の車は素晴らしいとは思いますが、コストカットに走りすぎるあまり、車に個性がなくなっています。
部品の流用が多く、デザインも似たりよったり、価格が安くて乗り心地も良くてそれはそれでいいのですが、なんだか違うんだよな~と思う人が目を覚ましたのです。
今、殆ど姿を見ることがなくなった少し前の時代の車からは、今の車からは考えられないようなオーラを感じるのです。
旧車の最大の魅力は、「人の心を動かす車であること」これに尽きます。

自動車の歴史その5

第二次世界大戦と自動車(1938-1945)

戦時体制時、ドイツではアドルフ・ヒットラーが大衆に対する人気取り政策として、“国民車構想”を提唱し、1938年にドイツの国民車として、フォルクスワーゲン・ビートルが誕生する。
このクルマはポルシェ社の創設者フェルディナント・ポルシェの手により開発された。

1939年に第二次世界大戦が開戦されたため、量産化直前で国民車構想は頓挫し、代わりに軍事用車両のキューベルワーゲンが生産された。

戦後にフォルクスワーゲン・ビートルは量産化が開始されると、長期にわたり世界中で販売され、累計2000万台以上の生産台数を達成し、ドイツの国民車というだけでなく、世界的な大衆車となった。
独裁者、戦争犯罪者として悪名高いヒットラーであるが、この国民車構想とアウトバーンの建設は、彼の功績として評価されている。

一方、ドイツのポーランド侵攻時のキューベルワーゲンの活躍に注目したアメリカ軍は1941年に小型四輪駆動車Jeep(ジープ)を開発し、実戦に投入した。
連合国の軍用車両として60万台ものジープが生産、世界中の戦場へと散っていった。
また、戦後は、世界中でノックダウン生産され、膨大な数の派出型ジープが誕生している。

この戦時体制の中、世界中で軍需用の車両の生産が優先され、乗用車の開発はストップした状態であった。

自動車の歴史その4

日本における自動車の芽吹き(1898-1945)

日本では、1898年(明治31年)に初めて、海外から自動車(パナール・ルヴァソール)が持ち込まれる。
その後、日本でも、自動車製造の試みが始まっていった。
1904年(明治34年)には岡山市で電機工場を営んでいた山羽虎夫が、国産車第1号とされる山羽式蒸気自動車を完成させた。
このクルマは乗合自動車(バス)としての使用を目的に造られたが、ソリッドタイヤがリムから外れるというトラブルに悩まされ続け、倉庫に放置されるままとなり、乗合自動車の計画は実現せずに終わった。

1907年(明治40年)、純国産初のガソリン車で、また国産で初めて実用化されたガソリン自動車が誕生した。
“自動車の宮さま”と言われた有栖川宮威仁親王殿下が、自動車の輸入・修理を行うオートモビル商会を設立した吉田真太郎と機械技術者の内山駒之助に要請し、10台ほどのガソリン車自動車がつくられた。
当時の人々に、このクルマがガタクリ、ガタクリ走ることから“タクリー号”と呼ばれた。

その後、明治末期から大正時代にかけて、自動車の国産化が数多く試みられたが、当時の日本の工業技術は、 まだ未熟であったため、国産化は成功しなかった。
このような試みのなかで、のちの自動車工業の確立に少なからず影響を及ぼしたのが快進社と白楊社であった。

1911年には快進社自動車工場が設立され、3年後の1914年(大正3年)年に乗用車の第1号「ダット」を完成した。

日本初の本格的な自動車生産は、白楊社のオートモ号が最初で、1925年に生産を開始し、230台が製造された。

しかし、欧米との技術の差はまだまだ埋めがたいものがあった。
GMとフォードが国内でノックダウン生産(製造国が主要部品を輸出し、現地で生産すること)を始めると、市場は寡占状態になり、快進社、白楊社ともに解散してしまう。

1930年代(昭和)に入り、1932年(昭和7年)に日産自動車の前身となる“ダットサン商会”が設立され、翌1933年(昭和8年)にはトヨタ自動車の前身となる“豊田自動織機製作所自動車部”が設立、現在の日産自動車、トヨタ自動車が誕生する。

快進社は巡り巡って、ダットサン商会に引き継がれ、一方、白楊社の主要メンバーは豊田自動織機製作所自動車部に入社している。

その後、トヨダAA型やダットサン14型などの意欲的な国産乗用車生産の試みはあったが、戦前の日本車はトラックが中心だった。
第二次世界大戦に向け、戦時体制が進むと、軍需用のトラックの製造が開始され、乗用車の開発は中断を余儀なくされることとなった。