◎㈱KSMの追加支援要請受け入れは⇒「困難」=柏崎市=市議会全員協議会(H30.2.14<水>開催)で表明

◎㈱KSMの追加支援要請受け入れは⇒「困難」=柏崎市=市議会全員協議会(H30.2.14<水>開催)で表明

柏崎市では㈱柏崎ショッピングモールから「追加支援の要望」が出されていた件について、「困難である」との意思表明を行った。

これは2月14日(水)に開催された「市議会全員協議会」で桜井市長が述べたものであり、その概要は以下のとおりである。

<追加要望の内容>

①SC棟2階を市から借り受けてほしい:賃料85~1,050百万円/年

②駐車場棟を市から買い取って欲しい:360百万円

※困難とする理由について、現在も職員駐車場、キッズマジック等としての借り上げ支援をしているが、現状における柏崎市の財政状況からして、それ以上の財政負担をすることは現状では困難である。また、駐車場棟の買い取りは、示された建物の評価額と市の独自調査の間に大きな開きがあることや、土地の地権者が多数あり複雑なこと等を理由として挙げている。

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 「涙は未来(あした)のために」=生かされている意味さがし(92)

92 涙は未来(あした)のために=生かされている意味さがし(92)

駄々をこねているのか、親に叱られているのか分からないけど、子どもの泣き声が聞こえるとなぜか辛くなりませんか?

なぜでしょう……。以前少しだけ子どもに関わる仕事に就いたからでしょうか。それとも、数十年も前の「子どもの頃の自分」を思い出すのでしょうか。

世界のどこでも明るく快活で屈託のない子ども達。汗をかいて遊びに夢中になったり、遊び疲れて無心に眠っていたり、大人が気にかけないものをじーっと観察していたり、そして、思い通りにならないと大泣きして抵抗してみたり……。

泣くことも大切なことなんだけど、なぜか辛くなるのです。泣くことって、「笑っている」「楽しんでいる」「明るく元気に成長する!」という概念の反対側にあることのような気がするんです。

おかあさんやおとうさんの腕に抱かれて大きくなる子ども達。

一方で親のぬくもりを知らずに、産まれてすぐ乳児院などの施設に預けられる子ども達。ちいさな時から辛いことがあってはいけないけど、泣いても叫んでもどうにもならない現実もあったりします。

娘が小さい頃、風邪をひいてお医者さんで点滴の針を見て泣き叫びました。自分が代われるものなら代わってやりたい。この子の行く末の苦労は全部親の自分が背負いたい。

「神様、この子に降りかかる災難は全部私が受けます」……と。天敵の針をみて、目の前で泣き叫ぶ娘をみて、小さな出来事だけど、そんなことを考えるのも我が子を愛する親なのでしょうか。

今日も妻は朝から星座占いをみて、遠くに住んでいる子ども達の運勢に一喜一憂しています。「私の運勢が悪くても、あの子達の今日は最高だから幸せ!」って喜んでいます。父親が母親にかなわない瞬間です。

以前勤めていた職場に、「産んだらすぐ保育園(幼稚園)に預けたい」というお母さんが来ます。まだ産まれる前から「預けたい」というお母さんも来ます。少し戸惑ったり、残念な気持ちになります。

でも、保育園の先生たちは、「是非、預かりましょう!」って言います。「だって、あのお母さんが育てるより、日中だけでも私たちが保育しているほうがあの子は幸せだよ!」って言います。その言葉になぜか説得力を感じてしまうというのは不思議な感覚です。

子どものためとか、児童福祉って言ってるけど、そのほとんどが、「子どもを持つ親(大人)への支援」なんですね。子どもには嬉しくないことの方が多いような気がするんです。

朝早くから保育園に預けられても、友達のいない日曜日に園の先生をひとり占めして遊べても、子どもはちっとも楽しくないんです。「やっぱりおかあさん、おとうさんとずっと一緒にいたいな!」「早く迎えにきて!」「おうちに連れてって!」って叫んでいるのです。

「泣きたいけど、そう言いたいけど、おとうさんとおかあさんが一生懸命働いているから僕だって私だって我慢してるんだよ!」って言ってます。この「心の叫び」をおとうさんもおかあさんも聞くことが出来たなら!……。

子どもの泣き声の向こうに虐待があったり、育児放棄があったりもします。とても悲しいし、そんなことのために「泣く」という人間だけの特権を子ども達には使ってほしくないんです。

少しむずかしいことだけれど、子どもが「泣いていること」「泣いたこと」が意味のあることになるようにしたいなって思うんです。

子どもの未来を創るのは、今の私たち大人の役割、そして大切な仕事。豊かで、広く明るい世界に子ども達が踏み出せるように、目の前の一歩から「希望の大地」を準備してあげる必要があると思うのです。

保育園や幼稚園にいくと、必ず元気な子どもが駆け寄ってきて、「おじさん誰? 名前は?」「おじさんどっから来たの?」って聞かれます。そうするとみんなが同じことを聞きます。

少しすると、「僕はねぇ○○」って名前を教えてくれます。そうするとみんなが胸の名札を見せながら名前を言います。「オレ四才」って言う子もいます。

003 帰り際に、一番遠くでこの様子をみていた大人しそうな女の子がスーッ! と寄ってきて、「私は○○」って名前を言って、恥ずかしそうに走り去っていきます。日常の何げないことなのですが、この子ども達の未来を考えずにはいられないのです。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

この記事はブログ管理者からの無理な申し出を、筆者から受け入れて頂き掲載しているものです。

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