「モノの言い方を考える」=生かされている意味さがし(51)

51 モノの言い方を考える=生かされている意味さがし(51)

「怒る」と「叱る」、あるいは「当たる」というのは違う! と常々私は思っています。

躾や道徳的な指導を意図して「叱れない」親、自分の気持ちをコントロール出来ずに子ども達に「当る」親……。

今どきの親をみていると呆れたり、切なくなったりします。自分の都合だけで、自分中心に考えて生きているようにしか見えません。

さて、そういう自分はどうでしょう。本当に冷静に叱る、示唆する、諭すということが出来ているのでしょうか。

そもそも、このような「怒る」「叱る」という言葉、相手との立ち位置からいうと、「自分が上に居ての物言い」となっています。果たして相手より自分の方が、人間としての器があるかとか、成熟しているか、というのは甚だ疑問が残るところですね。

相手の尊厳とか、生き方を肯定するなら「助言」とか、「参考意見」さらに下って「具申」とか、その程度しか踏み込めないのではないでしょうか?

自分を棚に上げて置いて「何者(もん)だ!」と言われそうです。

人を指導したり、説教した後の高揚感(快感)と味気なさ(虚無感)は、いったい何なのでしょう? 人にとって適切な言葉とは思えません。

003 子どもの成長に従い、私は子どもたちに「叱る」ということを止めることにしています。

どう考えても私より子供たちの方が大人に感じるからです。(笑)

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

この記事はブログ管理者からの無理な申し出を、筆者から受け入れて頂き掲載しているものです。

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