手習い・目習い・耳習い - その1

1 そこまで来ている「秋」の気配 

暑さは依然厳しいものの、お盆を過ぎると陽の光や風の流れに秋の気配を感じさせるようになる。躍動感溢れる夏から一変し、野も山も実りの季節を迎え、喧騒の蝉の声から癒しの虫の声へと変わる。人々の動きの中にも何処となく静寂が表れ、目も耳も内面へと注がれる。

世に習い事は多いが、その成果を発表するのも評価するのも、秋という季節が似合っている。

 

2 一芸は身を助ける

「一芸は身を助ける」と言うが、追求した「芸」を持つ人は魅力的でもある。「芸とか技の域」に達するには相当の「行」が必要であるが、その前々段階にあるのが「習い事」であろうか?

だが、習い事と言えども軽んずることは出来ない。そこには踏まえるべき定石もあれば、勘どころもある。「手習い・目習い・耳習い」もその一つだ。

例えば「書道」がある。いや、そこまで行かなくても「習字」でも同じことが言える。手習い・目習い・耳習いの3つをしっかり学習すると確実に上達する。この段階で基本をしっかりと身につけるということである。

何事によらず名人の域に達すると「我流」が高い評価を受けるようになるが、それまでは基本が大事だ。特に初心者はここの処が肝要で、その先に繋がる上達の礎ということになる。ここでは「手習い・目習い・耳習い」について、書道を想定しながら考えてみたい。

 

3 手習い

これは手本を見て臨書することだ。その上で先生から直してもらう。そして又臨書して直してもらう・・・、この繰り返しだ。

ここで大切なことは以下のとおり、

① よい先生につくこと。
② よい筆を選ぶこと。
③ よい手本を選ぶこと。

となる。

 

何でも「よい手本」とは中国“唐の4代大家”が基本ということだが、要は“超一流に学べ”ということであろう。これだけ情報化が進んでいる今日であるから、この超一流に学ぶことはその気になれば出来ない話しではなかろう。その意味では①のよい先生につくことも、求めて開かない話ではないと思う。

その一方で、「弘法は筆を選ばず」というが、これだけはどうやら我々凡人には当てはまらないらしい。筆が悪いとろくな字が書けないし、上達もしないということのようである。最初から大家の真似をしたところで、所詮無理な話であることは、先刻承知しているが、改めて納得である。

次回からは、「目習い・耳習い」をもう少し掘り下げて考えてみたい。

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