「母親の生き様」=生かされている意味さがし(78)

78 母親の生き様=生かされている意味さがし(78)

貧しいながらも厳しい家庭の五番目の子ども(三女)として母親は産まれました。

私にとっては祖父となる母の父親は若くして他界しましたが、祖母である母の母親は私が社会人になっても生きていたので記憶は鮮明にあります。荒物屋を営んでいて、郊外から街中に出てくる人達の買い物や通院途中の休憩所にもなっていました。

長男(兄)は将校か高位の軍人でしたが、戦後は公務員として働き、とても厳格な雰囲気があり存在感を放っていました。父親代わりであり、怖さもあって兄妹はみな「兄さん」と言いながらも絶対的信頼と服従をしていました。

母は利発で旧制高等女学校でも優秀だったようで、生活のため会社員にはなりましたが、自分より成績の悪い友達が教員になった! と言って悔やんでいました。負けず嫌いは人一倍だったようです。

夫(私の父)と結婚してから、パートなどをしながら生計を助けていました。一方で趣味も多く、大正琴から始まり、書道、華道、三味線、舞踊と一通りの習い事もしていました。

私達子どもの教育にも熱心で、私が物心(ものごころ)がついたときには既にピアノを習っていましたし、そろばん塾や進学塾にも通わされていました。嫌で仕方がありませんでした。

他人には気さくで優しく、面倒見もよく、コミュニティセンターの指導員として活躍したり、ワンバウンドバレーなどにも顔を出していたようです。

六十四歳で他界したとき、葬儀場が三百人ほどで溢れ、葬儀店の社長が、「大会社の社長の葬儀並みだ!」と驚いていました。

逆に、家では外の顔からは想像できないほどピリピリしていて家族はまとまりがなく、母親の機嫌に一喜一憂する毎日でした。(放蕩息子で受験にも失敗していた自分にも原因がありますが)

母親が私を認めるようになったのは、私の子ども(母にすれば孫)が出来たこと、風のたよりで「範行(息子)が仕事を一生懸命やっているらしい」と聞くようになってからだったと思います。

ここで、母親の姿を伝えることが意味あることかと考えてみたのですが、読者にも投げ掛けたいことがあったので書き始めました。

その母親が、息子である私を認めはじめ、意思の疎通が上手くいかなかった嫁(妻)との会話も自然となり、まぁ穏やかな老後が期待できそうだというとき、肺がんの末期であることが分かりました。

四十歳台に市内でも数人しかいない「膠原病(エリテマトーデス)」に罹患しており、がんには過敏になっていたようですが、内臓からの発癌となりました。

ただ、今になれば覚悟をしていた様子で、悲壮感はあったようですが、もがき苦しむような場面はありませんでした。

さて、本題となりますが、一時帰宅も出来なくなり、病院で家族が順番で付き添いの寝泊りを始めたとき二つの出来事がありました。

一つは、家財、財産の管理について夫である私の父ではなく、私に相談したこと。私自身が法律に多少の知見があったからでしょうか。私は親の財産など眼中にありませんでしたので、適当に聞き流していました。

そして、もう一つ。病室の大きなカレンダーの裏側に葬式の後の「お斎」の席順・配列を書き留めていたのです。死との背中合わせでそこまで冷静に、そして手落ちの無いような諸々の算段をして逝くことができる、というのは不思議な感覚です。

母親が偉大なのか気丈なのかは別として、自分に置き換えてどうなのだろう? と思ってしまいました。

その母親の介護に疲れ、尿管の挿入を拒み続けていた母親を説得し、体内にカテーテル(管)を入れた数日後に他界してしまいました。自分の思いやりのなさに後悔してもしきれなかったことを覚えています。

死に直面した母親を前にして、生きるということが、どんなに切なくて、やり切れなくて、でも人間が乗り越えなければならない肉親との別れは一生のうちに数回はあるはずです。

この、瞬間を分かっていたとしたら、その時を迎えるまでにもっとしてあげられることが沢山あったでしょう。もっと自分が成長して喜ばせてあげられることも沢山できたでしょう。

本当の「後悔」という言葉はその瞬間にあるような気がしたのです。

今、最上級の仏間を造って母親の供養をしていますが、当時小学生だった愚息(孫)の文武両道の活躍をみたらどんなに喜び、茶飲み友達に自慢しただろうかと、人の終わりの寂しさを感じずにはいられないのであります。

003こんな経験から、親のためにも、「しっかり生きる」ということを皆さんに伝えたいと思ったのです。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

この記事はブログ管理者からの無理な申し出を、筆者から受け入れて頂き掲載しているものです。

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