「御本山に参拝する」=生かされている意味さがし(36)

36 御本山に参拝する=生かされている意味さがし(36)

秋の紅葉を愛でつつ奈良の長谷寺と京都嵐山に出掛けました。我が家の宗派は真言宗豊山派なので、本山は長谷寺ということになります。

門前町から長谷寺に足を踏み入れた瞬間に、「あぁ、親父を連れて来なくて良かった!」と思いました。門から永遠に続く石段を見て驚きましたし、事実、下りの石段も歩幅を合わせながら門前の土産物店に辿り着いたときは、自分の足でさえも少し「ガクガク」としていました。

こんな場面で、たぶん、階段を見た瞬間に父親は、「俺はこの場で待っている!」と言うか、途中の石段で、「俺はもう戻る!」と言い張って、家族の全体行動を乱すか、どちらかであります。すったもんだ!の挙句に連れてこなかったのは正解だったのです。この経緯は他の章にも書いてあります。

さて、今回の「京都・奈良の秋の紅葉」も目的ではあったのだけれど、主題は本山「長谷寺」の下見であります。伯父の終末と、父親の昨年の病気、高齢を踏まえて「いざ」という時の心構えを噛みしめつつ、自分自身が現世の次に行く世界への「一番最初の通り道」のような気がしたので、娑婆にいるうちにこの目で確かめておこう! という気持ちからの旅でした。

偶然にも「十一面観世音菩薩立像」の特別拝観も叶って、充実したお参りが出来た旅でもありました。

寺参りではすべての人が仏様、観音様、菩薩様などに手を合わせるのですが、お年寄りの信心深そうなお参りも、さっきまで腕を組んでいた若いカップルが手を合わせるその時も、清らかな容姿をしていると思います。そして美しいとも感じてしまいます。

人は何故手を合わせては仏様や神様に祈り拝むのでしょうか。私達の世代は「手を合わせる」ことが習慣になっています。毎朝の仏壇・神棚へのお参りもそうですが、ご飯を頂くときも当たり前のように手を合わせます。感謝と畏敬の念、さらにはこんなご時世だから、「誰かにすがりたい」という気持ちが、手を合わせて「祈りすがる」ということをさせるのでしょうか。

雑念だらけの私は、「宝くじが当たりますように」とか「うちの子が一番になりますように」などと都合のよい願掛けやお参りをしていましたが、最近は、神様には「日々の御礼と親族の安息」を願い、仏様には「家族の見守りと感謝」を伝えることにしています。

003 長谷寺でご本尊に手を合わせたあと、妻に「何を祈願したか?」と聞いてみましたが、やはり「感謝と親族の安息」との答えだったのです。過剰な要望をするような雰囲気ではない荘厳な聖地に身も心も洗われて帰路についたのです。

仏様にも神社仏閣にも油をかけていくような人がいるのは残念でなりません。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

この記事はブログ管理者からの無理な申し出を、筆者から受け入れて頂き掲載しているものです。

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