「ペット」ではなく「家族」=生かされている意味さがし(85)

85「ペット」ではなく「家族」=生かされている意味さがし(85)

愛犬の死に直面して、「もっと優しくしてあげれば良かった」「もっと触れ合う時間を大切にすれば良かった」と後悔している方も多いでしょう。

我が家も二六年六月に十五年間連れ添ったラブラドールの「かん吉」が亡くなりました。

いつ亡くなってもいいようにと、妻が付き添っていたときに、「クワァ~ン」と一鳴きして息をひきとったそうです。

職場から駆けつけた私も、まだ温かいかん吉に掛けてあげられる言葉が見つかりませんでした。妻は泣き崩れ、夜中も添い寝をしながら過ごしていました。

お葬式をして、ペット専用の火葬場から小さな骨箱に入れられて帰ってきました。今は庭先の小さなお墓の中で眠っています。

「家族の死と同じなの。立ち直れない」と妻は言っていました。「もう、犬は飼えない」とも言っていました。私もそのときは同じように思っていました。

ペット(愛玩動物)という表現より、しゃべらない家族って感じでしょうか。大切な子どもを失ってしまったような「やりきれない気持ち」もそこにはありました。

ペットロスという言葉があります。大切な動物を失って精神的にダメージを受けたり病気になったりすることもあるそうです。ペットロス協会なるものがあって、そういう方々のカウンセリングまでやっています。

我が家も、子ども達が家を離れているので、そういう気持ちになっていたのかも知れません。

その後、妻とはペットショップや、大きなホームセンターのペット売り場にはいきませんでした。

が、最近、私は自分一人でこっそり行ったり、自然と足が向いてしまうことがあります。かん吉と同じ目をしている犬を探したりしてしまいます。

でも、やっぱり可哀想な気持ちになります。人間の都合で「セール期間中」と貼られたゲージの中で寂しそうにしています。こっちを見て、「助けて。ここから出して!」「僕を(私を)飼って!」って聞こえてきます。

そのとき、「もっと優しくしてあげれば良かった」「もっと触れ合う時間を大切にすれば良かった」という後悔をまた繰り返すのか、という天の声が聞こえてきます。

003 たぶん、もう飼えないでしょうし、飼う資格がないのかも知れません。四番目の子どもとして、食事のときにテーブルに顔を並べて坐っている「かん吉」の表情が忘れられないのです。

〈松谷範行氏著作:「生かされている意味さがし」より〉

この記事はブログ管理者からの無理な申し出を、筆者から受け入れて頂き掲載しているものです。

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